ダメな息子でも、大切にする父親 2019年3月31日
四旬節第4主日の福音は、生真面目な長男と放蕩して故郷に帰ってきた次男とお父さんが主題のイエスキリストが
話したたとえ話でした。ファリザイ人と律法学者がイエスを〝税吏や罪びとと食事をしている。”と非難していた
状況でされたことです。このブログはあくまでも、私、増田和俊の意見ですので、カトリック教会の正式のミサの
説教はヴァチカンのサイト等をご覧ください。ファリザイ派や律法学者は、他人のことを一々、あげつらう人です。イエスキリストがされたたとえ話は、人情味にあふれています。身につまされることで、聞きながら、〝そうだな~、長男ってそんな感じ。次男は要領よくて、そんな感じ。” 現実の親父と違うのは、このお父さんです。
私たちは、イエスキリストから見たら、父親を知らない、私生児のようです。だから、イエスキリストはこの話
をされたのでしょう。大体、父親が元気なのに、〝お父さんの財産で、僕の相続分を今、下さい。” なんて父親に
言う息子がいるのかな~。と思います。とにかく、よく、ありそうな話で、自分の中にも、長男と次男の両方の性質があります。この世の父親は、多分、こんなに優しい父親ではありません。この父親は、私たちの天におられる
父です。24日の主日(日曜日のこと)では、神様(天の父)の名前は、”我在り”という話でした。否定形にした方が理解しやすいかもしれません。〝我不在”。ルールもなにもなし、この世は地獄になってしまいます。イエスキリストの話を福音、Gospelといいます。Go:Good,spel:spellです。この頃、聞かない諺に、〝親の心、子知らず。”というのがありますが、この親の心というのは、天の父の心のことだったかもしれません。神様の愚かさは、人間の賢さよりも賢いと教えてくれます。